先月のこと。
ある知り合いから突然、「靴作家の知り合いが亡くなって、その人の道具や材料を譲り渡せるような靴作家の人はいないか?処分まであまり時間がない」という趣旨の電話を受けた。
その知り合いは、僕がある靴作家の作った靴を履いているのを知っていて連絡してきたのだが、その彼はもうずいぶん前に作家としての道をあきらめていたので、他に直接知っている人はいない。それに、どんな物がどれだけあるのかも分からなければどうしようもない。
とにかく見てみたい、ということで、ある日時が設定され、その方の自宅兼工房を訪ねた。
そこには、大量の革、道具、大型ミシンの他、その方の作品である和紙でできた靴があった。また大量の本や雑誌の中に、「シューフィル」が転がっていた。
「シューフィル」とは、靴の業界紙。6年ほど前、ある仕事でその責任者、城(たち)さんを取材したことを思い出した。
靴用のミシン、「happoミシン」と呼ばれる「全方位型(=(八方)」ミシン、そして大量の革などは、このままでは「産業廃棄物」として捨てられる運命にあった。当日は、「ちょっと知り合いにあたってみるので、改めて連絡します」と言い、翌日、城さんに6年ぶりに連絡を取った。
城(一生=いっせい)さんは、若い靴作家の支援をしている。それは2006年、城さんたちを中心に、靴作家を目指す若者を支援するプロジェクト「JINCA(ジンカ」)が生まれた。このプロジェクトの一つに、若者への作業スペースの提供というものがあり、そのスペースを提供しているのが、革の卸問屋「タテマツ」の立松進社長だ。僕は、なぜかこのプロジェクトに興味を持ち、二人を取材したのだった。
城さんは僕のことを覚えていてくれて(特徴のある人間でよかった)、経緯を話すと、さっそく彼も深くかかわっている「浅草ものづくり工房」とも連絡を取り、それらを引き取る段取りを整えてくれた。
話はそれるが、台東デザイナーズビレッジができたのは2004年。「村長」の鈴木さん(残念ながら面識はない)は、今や「モノづくり支援のカリスマ」とも呼ばれる存在。そして、本人は否定するだろうが城さんは「靴づくり支援のカリスマ」的存在であり、台東のモノづくり支援の「両巨頭」のお1人だ。
さて、引き取り当日、僕は所用で行けなかったが、城さんは同行した。そこで初めて、その亡くなった作家が誰かを知ることになる。なんと、二人は、亡くなる直前までやり取りがあったのだった。
その作家は、猪瀬靴工房を主宰する猪瀬和夫さんといい、靴底以外の部分を和紙で作るというオリジナル靴の制作に取り組んでいた。そして、シューフィルが主催して2k540で定期的に開催されている「モノマルシェ」にも出展したことがあった。
城さんは、猪瀬さんのその作品を預かっていて、返却しようにも連絡が取れず困っていたらしい。しかし、2人はようやく再会を果たした。。
猪瀬さんは生前、自らの作家活動を含め、いろいろ悩んでいたらしい。しかし、城さんによると、その和紙の靴に対しては、福祉関係者が注目していた。なぜかというと、軽いので、介護施設などにおける老人の足元のおしゃれにもってこいだというのだ。
これは、需要はどこに転がっているか分からないということを示している。とにかく表に出ることが重要だ、ということだ。城さんも嘆いていたが、若い靴作家の中に、「表に出たがらない」人がかなりいるらしい。「いい靴を作れば自然と人が寄ってくる」とでも思っているのだろうが、これは大きな間違いだ。
作家の評価は、敢えて言えば「売れてなんぼ」。どんなにいいものでも売れなければ意味がない。極端に言えば、どんなにつまらないものでも売れれば「勝ち」だ。
手作り作家の場合、物を作るだけでなく、「セルフプロデュース」が重要になってくる。品質はもちろんのことだが、出店場所の確保、出展会場での適切なディスプレイ、接客、マーケティングのほかブログ、フェイスブックなどを有効に活用することが求められる。反対に言えば、それらがトータルにできなければ(もしくは、それらをやる気がなければ)作家としてはやっていけない。もし1人でできなければ、作る以外を引き受ける「マネージャー」的存在を見つけなければならない。
城さんと話をしていて一致したのは、作家として「世界に出ていくくらいの気持ちがないとだめだ」ということだ。「世界」はもちろん、自分の好きなところでいい。ヨーロッパでもアジアでも、アメリカでも。
人生の中で出会いや別れは必然だと思う。必要な時に必要な人と出会ったり、再会したりするものだ。僕は猪瀬さんと生前面識はなかったが、出会った気がする。出会ってすぐお別れすることになったが、また猪瀬さんのおかげで知り合った人がいるし、城さんとも再会できた。
何よりも、上で書いたような「作家としてのあり方」について改めて考える機会となった。猪瀬さんがどういう思いのうちに亡くなられたかは分からないが、作家として志半ばだったことだけは確かだ。「遺志を受け継ぐ」というのではないが、せめて再認識した「作家としてのあり方」を追求していければと思う。
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